「米沢講中宛教如・宜如消息」
一通 米沢講中宛 本願寺教如
縦17.4cm 横83.0cm
一通 米沢講中宛 本願寺宣如
縦17.3cm 横88.5cm
『由緒書言上書』に、「御書三通教如・宣如・常如」とあるが、常如のものは現存しない。「教如消息」から、年不詳であるが、教如の代に米沢長命寺では十二日・十三日・廿八日に講がひらかれており、そこで集められた志の銭を、教如のもとに届けていたことがわかる。
天正八年(一五八〇)三月、石山合戦の終結時に顕如が信長との和議を受け入れたのに対して、教如は抗戦を主張し、このため顕如との間には不和が生じた。文禄元年(一五九二)十一月、顕如が没し教如が跡を継いでいるが、これに先立ち天正十九年(一五九一)十二月顕如は阿茶(准如)のために譲状を認めたとされており、文禄二年九月秀吉は、この譲状を根拠に、准如に寺務を継承させている。同年十月教如は准如に法主職を譲り退隠しているが、信州の門徒の多くは、教如に帰依していた。長命寺善乗もその一人であったようである。
慶長二年(一五九七)、善乗の願いによって、教如は長命寺に「見真大師御影」及び「太子・七高憎像」を下付している。また慶長五年(一六〇〇)には、石山合戦の功により、長命寺善乗と長男西祐に「一家昇進」の免許が出されている。この免許は『由緒書言上書』にも「長命寺常什物」として記載されており、文政元年(一八一八)には所蔵されていたはずである。現存しないので発給者が不明であるが、石山合戦以後の長命寺善乗と教如との関係を考えると、教如からの免許であろう。このような推移から、教如法主による東本願寺が成立したのち、教如の意向をくんで米沢では善乗や西祐を中心に講がひらかれ、真宗門徒の集結が図られたと考えることができそうである。
「米沢講中宛教加消息」は、年不詳であるが、善乗が米沢に移った慶長六年(一六〇一)十一月から教如没年の同十九年十月までのものと考えておきたい。
「志の銭」は、石山合戦終結後、教如と顕如との仲が不和になったころから全国の門徒から教如のもとに届けられたようである。
「教如上人御消息集」及び「補遺教如上人御消息集」(「真宗史料集成」所収)にのせられた「志の銭」は、天正十三年(一五八五)閏八月十六日に越前坂北郡ホソロキノ(細呂木)郷吉崎所々志衆から寄せられた志銀子五十匁を皮切りに、約百通のものが確認できる。
これによると、教如に寄せられた「志の銭」は、全国の門徒が、講を結んで真宗の教えを守りながら教如を支えていたものである。その範囲は、越前・越後・越中・能州・佐州・加州・佐州・江州・三州・信州・常陸・秋田であるが、東北関係のものはほとんど収録されていない。しかし、このことは、東北関係の寺院で講が結ばれておらず、教如のもとに「志の銭」が届けられていなかったことを意昧するのではなく、おそらく未調査・未発見のためであろう。この意昧で米沢長命寺廿八日講・十二日講・十三日講中宛の教如消息は貴重なものである。
「志の銭」は、石山合戦を通じての結束が教如の許へ寄せられたものであり、教如は、返書のなかで信仰のありかたを述べている。教如の教化を知る上でも重要なものである。また、この「志の銭」は、隠居中の教如の活動を支える基となり、のちの東本願寺の本末関係の基礎になったものとして注目しておきたい。
宣如は、教如の三男である。長兄・次兄が早世したために、慶長十九年(一六一四)教如の没後十一歳で継職した。「大谷派歴代消息」宣如集には、寛永二年(一六二五)二月ごろから全国の講中から宣如のもとに寄せられた「志の銭」が収録されている。
「真宗史料集成」所収の「宣如消息」には、米沢長命寺のものは収録されていないが、この米沢講中宛消息によって教如の代に続いて長命寺では講が開かれ、「志の銭」が宣如のもとに届けられていたことが明らかになった。
また「常如消息」は現存しないが、『由繕書百上書』の記載によって、この時期にも長命寺で講がひらかれていたことが推定される。延宝五年 (一六七七)に亡くなった了祐の代である。