西仏坊浄寛(旧名覚明)は、親鸞と時を同じくして比叡山慈鎮和尚の門に入りました。建仁元年(一二〇一)親鸞は比叡山を下り、東山吉水の法然のもとに参じますが、このとき浄寛も同行したとされています。承元元年(一二〇七)専修念仏禁止令が発令され、源空・親鸞らは流罪となりますが、浄寛は親鸞に従い越後に下り、親鸞の弟子となりました。
親鸞聖人真向きの御影 |
浄賀は、浄寛の書いた親鸞上人の伝記をもって、本願寺の創始者である覚如上人にお見せした所大変喜ばれ、浄賀とともに親鸞上人の旧跡を廻られました。永仁三年(一二九五)覚如上人の詞書で、浄 賀が絵を描き、『親鸞上人絵伝』が作られました。現在覚如・浄賀の「親鸞絵伝」は新潟県上越市の浄興寺と塩崎の康楽寺に遺っています。
浄寛から八代目にあたる康楽寺浄証は、本山からの招きで上洛し、親鸞から伝わる法儀や康楽寺に付いて申しあげたところ、「老体ながら、よくそこまで間違いなく申し述べた」と喜ばれ、「長寿の甲斐あり」と、「長命寺」と名を授けられました。浄証百八才でした。
浄証は喜悦かぎりなく、帰国後康楽寺を隠居して、信州水内郡徳永郷井上に長命寺を建立しました。この由緒を持って、長命寺では浄証を開基とお呼びしております。