「摩訶般若波羅蜜多心経」(「紺紙金泥心経」)

摩訶般若波羅蜜多心経(紺紙金泥心経)

「摩訶般若波羅蜜多心経」(「紺紙金泥心経」)

縦21.0cm  横84.0cm

 

 この「摩訶般若波羅蜜多心経」(「紺紙金泥心経」)が当寺に伝来した経緯を考えるために、この奥書の持つ意義と時代背景を明らかにしておきたい。

奥書 
  奥書

 

イ 桂光院一品式部卿と智忠親王

 この「紺紙金泥心経」は、寛永六年(一六二九)に亡くなった桂光院一品式部卿の三回忌(同八年)に、当時十三歳であった智忠親王がその冥福を祈って書写したものである。

 桂光院は、正親町天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第六の王子である八条宮智仁(としひと)親王の法謐である。智仁親王は、はじめ豊臣秀吉の猶子となり、関白の職を譲られる約束であったが、秀吉に鶴松が誕生した為に解約となり、天正十七年秀吉の奉請によって親王家を創立し、八条宮を称した。同十九年元服して式部卿に任じられ、慶長六年(一六〇一)三月、一品に叙せられた。学問・文芸にすぐれ、中でも歌道については網川幽斎より古今伝授を受け、寛永二年これを後水尾天皇に相伝して御所伝授の道がひらかれたとされている。

寛永六年四月七日に五一歳で亡くなっている。

  「紺紙金泥心経」を書写した智忠親王は、この八条宮智仁親王の第一王子(母は丹後宮津藩主京極高知の女)として、元和五年(一六一九)十一月一日誕生した。寛永元年(一六二四)七月後水尾天皇の猶子となり、同三年十二月親王宣下をうけ、同六年元服して中務卿となっている。

明暦三年(一六五七)正月、二品に叙せられたが、寛文二年(一六六二)七月七日に没している(法謚天香院)。

 智忠親王は、父親王の好学の資を承けて修学に努め、和歌・書道にすぐれていたことが知られている。

 

ロ 「摩訶般若波羅蜜多心経」が書写されたころの朝廷の様子

  「摩訶般若波羅蜜多心経」が書写された寛永八年(一六三一)は、明正天皇の即位三年目にあたる。明正天皇は、後水尾天皇と皇后和子との間に生まれた女一宮興子内親王である(当時八歳)。

 この一宮興子内親王の母にあたる後水尾天皇の皇后和子は、徳川秀忠の息女であった。

 和子の入内は、後水尾天皇の即位慶長十六年(一六一一)三月以前から予定されていたが、大阪の陣・家康の死・後陽成院の崩御・お与津御寮人一件などのため、入内が実現したのは元和六年(一六二〇)六月十八日であった。この入内に募府と朝廷との折衝にあたったのが幕府側藤堂高虎・朝廷側近衛信尋・八条院宮智仁親王である。お与津御寮人は、和子入内に際し、秀忠によって禁裏を追われ、京都妙心寺に入ったとされている(「長命寺物語」)。後水尾天皇の女御お与津は四辻公遠の女で、上杉定勝の母となった桂厳(岩)院とは姉妹の関係にあった。

 

ハ 四辻家と山浦玄蕃 

四辻家と山浦玄蕃
 お与津御寮人(与津子)の生家四辻家は、代々和琴・筝を家業とする稚楽の家であり、その関係から京都の公家社会の儀礼に通じている家柄であった。

 智仁親王が、和子入内に関係したことから、八条院宮家と四辻家とは知己の間柄であったと思われる。

 上杉定勝は母桂厳(岩)院没後も、四辻家とは親しく交際し(「上杉家年譜」)、公遠の末子山浦玄蕃(光則)(「米沢市史」では、玄蕃は上杉定勝の生母桂厳(岩)院の末弟猪熊光秀の次男としている)は、礼式儀典を重視する定勝に招かれて、上杉一門に加えられ、秩禄一〇〇〇石を拝領して十年間上杉藩政に参与した。この玄蕃の次女が長命寺に嫁いでいる。

 智忠の「紺紙金泥心経」が、長命寺に伝来した経緯についての記録はない。しかし八条院宮家と四辻家との交流を考えると、長命寺に嫁いだ玄蕃の次女が所持していた可能性があるように思う。