山浦玄蕃と長命寺

 山浦玄蕃(光則)は京四辻家公遠の末子で、上杉定勝の母桂厳(岩)院の弟にあたります。

 

 玄蕃は礼式儀典を重視する定勝に招かれて、上杉一門に加えられ、十年間上杉藩政に参与しました。しかしキリシタンであることが発覚し、承応二年(一六五三)極楽寺で処刑されました。妻子にもおとがめがありましたが、延宝元年(一六七三)赦免状が出されています。

 

 この赦免状によりますと、「玄蕃の妻は寛文十三年(=延宝元年)二月病死、長男尭雅坊は関根普門院、次男丹存坊は寛文七年六月二二日京都智積院学寮で病死、女子一人寛文十年六月十九日病死、女子一人一向宗長命寺に縁組」とあります。玄蕃の血筋が長命寺に伝えられたことになります。

 

 長命寺には「姫宮様の墓」という伝えがありますが、長命寺に嫁いだ玄蕃の次女の墓をさすのでしょう。