「謙信堂再建棟札」
天正六年(一五七八)正月、関東平定を達成しようとした上杉謙信は三月十五日を進発の日と決めていたが、目的を果たすことができないままに十三日に永眠した。四十九歳であった。越後春日山城北の丸の大乗寺良海が導師を勤め、不識院殿真光謙信と謚した。
謙信の後継者となった景勝は、慶長三年(一五九八)一月十日、豊臣秀吉から会津への移封を命じられ、三月一日に会津に移った。この時謙信の位牌は大乗寺・妙観院・宝幢寺の三寺が越後に残り守護したが、景勝の旧領の領主となった堀秀治の要請を受け、同年八月謙信の御廟を会津若桧城に移している。
慶長六年八月、景勝は会津一二〇万石から米沢三〇万石に減封されて十月米沢に移った。謙信の遺骸は、はじめ米沢城本丸西南の御蔵に安置されたが、同十四年六月本丸東南の隅に本格的な霊廟が造営され、御堂と呼称された。
御堂は、縦十三間・横六間の真言寺院造りで、内陣の本壇は三間四方で、そこの二間四面の宮殿に謙信の霊柩が安置された。謙信が真言宗に帰依していたために、御堂は真言寺院形式に作られ、法音寺・大乗寺などの能化衆十一ケ寺と御堂衆九ケ寺・御堂を管轄する霊仙寺の真言寺院が勤仕した(「米沢市史」)。
嘉永二年(一八四九)十二月二十目、御堂は火災によって焼失した。 「謙信堂再建棟札」は、翌三年八月十三日再建された時のものである。
供養識衆職衆として法音寺・大乗寺・蔵王堂・大聖院・安養院・教王院・長福寺・宝蔵寺・金剛院・延寿寺・妙観院・霊仙寺(以上能化衆と管轄寺)と御堂衆である善性院・東光院・円明院・萬秀院・弥勒院・浄福院・連蔵院・正福院・法性院の他に御膳衆(調理・供膳にあたる)である澄海房・大雄房・淨厳房・行雲房・高尋房・泰亮房六人の名がある。棟梁は、石山源左衛門重雄と松浦太兵衛直躬である。
御堂が、長命寺本堂として移転された時に、この棟札も長命寺に移された。