5 「唯信抄文意」 一軸
「由緒書言上書」に、『唯信抄文意一軸 宗祖聖人真筆』とあるが現蔵せず、所在不明である。
「唯信抄」は親鸞が尊敬した法然の同門である聖覚(一一六七〜一二三五)が承久三年(一二二一)に著したものである。親鸞は、法然の念仏の正統義を伝える先輩として尊敬し、この「唯信抄」をたびたび書写し門弟に勧めている。
「唯信抄」は、法然の選択集の意向を承け、仏道を聖道門・浄土門(諸行往生と念仏往生)に分けて、念仏往生には、ただ本願をたのみ平生の一称一念決定往生と信じて一生涯称名念仏申すべくと勧めている(「真宗史料集成」親鸞の書写編集解題)。「唯信抄文意」は、聖覚の「唯信抄」にひかれた経釈の要文を抜き出して解釈し、一般の人々にも分りやすくその文意を説いたものである。親鸞は、書写したものをしばしば門弟に与えており、康元二年(一二五七)の奥書のある真碩二本が専修寺に蔵されている。康元二年本のほかに、建長二年(一二五〇)、同八年(一二五六)奥書の古写本も伝わり、正嘉元年(一二五七)奥書のものが一般に流布している(「真宗新辞典」)。長命寺に伝来した「唯信抄文意一軸」が果たして親鸞の真碩であるかどうかについては、現在所蔵されていないので真偽を決することはできない。ただ長命寺の開基が親鸞の弟子西念あるいは西仏であったということを考えると、その可能性は皆無とはいえない。
例えば、親鸞の弟子成然の開基を伝える前橋の妙安寺には、親鸞聖人真筆を伝える「唯信鈔」と「唯信鈔文意」が伝わっている(「一谷記録・寺宝」前橋教育委員会)。「一谷記録・寺宝」に収録された近藤喜博氏の「妙安寺本唯信鈔・唯信鈔文意」によると、妙安寺本唯信鈔には、『寛喜二歳仲夏下旬第五日以彼真筆草本、愚禿親鸞書写之』とあり、妙安寺本唯信鈔文意には、『正嘉元歳八月十九日、愚禿親鸞八十五歳書之 同二歳季夏十五日 以師真筆ノ本、釋成然書写之』とあり、妙安寺本唯信鈔文意は、親鸞が八十五歳の正嘉元年(一二五七)八月十九日に書写したものを、翌二年六月十五日に弟子成然が書写したものである。
このようなことを考えると、当寺にも親鸞の弟子である長命寺開基の書写したものが伝わっても不自然ではないように思える。
文化十四年(一八一七)「由緒書上書」が作成された当時は長命寺に所蔵されていた『唯信抄文意一軸 宗祖聖人真筆』がこの機会に発見されることを願っている。
10 「文成院院号」
「由緒書言上書」に、『文成院の院号一軸 従如上人真筆』とあるが現蔵せず所在不明である。文成院は、九代廓祐である。廓祐は、六代了祐の次子で、寛永二十年(一六四三)誕生、善芸を名乗っていた。
了祐の長男敬祐・敬祐の長子善祐と次第したが、善祐が元禄二年(一六八九)に十四歳で没したので、末寺還来寺・覚善寺・善行寺より本山に願い出、善芸は四十八歳で得度、廓祐を名乗り相続した。宝永六年(一七二一)六八歳で没。
11 「蓮如上人御文」 三通
「由緒書言上書」に、『蓮如上人御文 三通 実如上人真筆』とある。
蓮如上人御文は、蓮如が門徒に書き与えた消息体の法語で、文明三年(一四七一)から明応七年(一四九八)までの五八通と年次不明の二二通を五帖に編集し、五帖の御文と呼ばれる。円如(実如の第三子)の編と伝えるが、本願寺九世実如の手によったようで、証如(本願寺十世)がはじめて開版した。
数種の御文が現在所蔵されているが、実如上人真筆と思える蓮如上人御文は現存しない。
13 「箭文」 一通
「由緒書言上書」に、『箭文一通 大阪龍城伺』とある。
教如上人は、石山合戦の際の軍功を賞し、「累代其方昇進可為望候」(天正四年五月三日 大津教信宛)と昇進を約し、また討死したものに名号・詠歌を寄せる(天正四年四月十一日 西光坊願照宛)などの配慮をしている(「教如上人消息」)。善乗に与えられた箭文が現存しないのは残念であるが、当時信濃長命寺は、康楽寺末として石山合戦に参加しており、天正五年には康楽寺が石山本願寺救援のために兵粮二一〇俵を送っているので、長命寺善乗に箭文が与えられたことに不自然さはない。
当時の教如消息から椎察して、善乗に与えられた箭文は、彼の龍城の際の働きを認め、のちの昇進を約束したものであろう。おそらくこの箭文は、慶長五年の一家免状の前提になるものであろう。
15 「善仲父子一家免状」 二通
「由緒書言上書」に、『一家免状 二通 善仲父子』とあるが現存せず、所在不明。
文化十四年(一八一七)「天明已来代々勤書」に、慶長五年(一六〇〇)会津において石山合戦の功により長命寺善仲・西祐父子に、「一家昇進」の免状が与えられ、その御礼として善仲が上京し、ご門跡の御意を蒙り、参内して権大僧都勅許の口宣を頂戴したとある。
残念ながら両者とも現存せず、准如からのものか教如から出されたものかを判定することができないが、慶長二年・同九年に教如が善乗(善仲)に見真太子御影・聖徳太子真影などを下付しており、本尊・聖教の下付は門主と門徒との結合を強くするという観点から、教如によって出された免状の可能性が高い。
石山合戦の際に、教如は、その働きによって昇進を約束している事例が多く、准如に跡を譲って隠居中にも昇進を約束している事例がある(「教如上人消息」)。しかし、関東以北の事例は発見されているものが少なく、善仲父子に与えられた免状が教如からのものであるとすると、東本願寺成立までの教如の動きを知る上でも貴重なものである。