皆乗院恵忍筆「六字名号」
縦123.5cm 横39.0cm
恵忍筆「論註攷藁三」・「山字編六巻」(「山」は金偏に山)
今回の調査で、恵忍が本山で学んだ際の聞き書きである「論註攷藁三」と「山字編六巻」(「山」は金偏に山)など数点が発見された。
真宗では江戸時代に入って、宗学が興隆するとともに、学階(憎侶の学識を示す階次)が設けられ、本山で夏秋の講話が行われ、学問を修める寮舎が設置された。大谷派では、正徳五年(一七一五)はじめて講師職を置き、一派の学頭として恵空が任じられ、ついで嗣講・擬講・寮司・擬寮司の制が設けられた。
恵忍は、この学寮で延享三年(一七四六)と宝暦三年(一七五三)に講話を聴聞している。講師は専称寺(大阪府堺市)恵然である。
恵然は、正徳三年(一七一三)恵空に師事し、宗学はもちろん天台・華厳に通じた学僧であり、享保十三年(一七二八)講師となり、高倉学寮の新築・学規学制の制定・大蔵経の校正などに貢献した。「無量寿経義記」・「論註顕深義記」・「四帖疏彰記」・「往生要集略讃」などの著作が知られている。
恵然の講話は、善導の著「法事讃」と「観念法門」が中心であった。
延享三年四月十五日から五月二十六日まで講話が行われ、続いて六月四日から「往生礼讃」、六月二十一日から「般舟讃」が講釈された。
宝暦三年は、淨祐が淨往に寺務を譲り、隠居(宝暦二年)後の登山である。五月十五日から十二月十二日まで四十八座が、続いて翌四年正月十八日から二月二十日まで十座の講延が開かれた。前回と同様に唐の善導の著である「観無量寿仏経疏」が講じられた。
善導は唐時代の中国の浄土教の僧で、彼の思想と実践は、後世法然房源空の浄土宗の成立と親鸞の浄土真宗の展開に大きな影響を与えた。延享三年(一七四六)と宝暦三年(一七五三)の講話を通じて、恵忍は親鸞が大きな影響を受けた善導の学問に触れたわけである。「論牧攷藁」は、講師の講話を丹念に聞き書きしたものである。
恵忍の代表作とされる「二河白道長歌」が善導の観経序分義中にある「二河白道」の譬喩を歌ったものであることを考えると、本山学寮での恵空の善導の著作に関する講釈に接したことが、それ以後の恵忍の学問に大きな影響を与えたものと思われる。
「山字編六巻」奥書には、
上件六冊 延享元甲子八月連窩先生放講教之
席出之使是予写之親厚之情敢豈浅之乎
鴨流崖北村屋之後亭閑居之日
とあり、恵忍は延享三年(一七四六)、本山で恵然の講話に接する以前に連窩に師事していたことを知ることができる。
恵忍は、前述したように本山で恵然などに師事する一方で多くの弟子を育てたことが知られている。天保二年(一八三一)江戸西教寺で刊行された「二河白道長歌」は、長命寺の脇寺還来寺の住憎慧湖法師が幼い時に、師恵忍の説いたものを書写したものである。また明治三十五年(一九〇二)ごろに発見された恵忍の遺稿のなかに、「法然一枚起請文布艸談」があったことが知られている(石田勘四郎「米沢郷土史」)。今回の調査で、享保五年(一七二〇)蜘ケ池村沙門松応が「法然一枚起請文」を書写したもの
「論註攷藁」は、今回の調査で新しく発見されたものではない。明治三十五年ごろ、梵語学者で明治三十六年真宗大学学監(学長)となった南条文雄が、天保二年(一八三一)五月に江戸西教寺で刊行された恵忍の「二河白道長歌」に注目し、長命寺に紹介している。長命寺では、その要請に応じ恵忍の遺稿を探し、「論註攷藁」をはじめとする教義解釈の書や説教の材料の控えと思われる「座右要論」や「愚禿鈔」など数点を発見した(「米沢郷土史」石田勘四郎文献出版)。しかしその後、これら恵忍の労作は世に出ることもなく、長命寺内に隠蔵されていたが、今回の調査で再発見されたものである。
恵忍の書写や著作についての調査は緒についたばかりで、「二河白道長歌」などの著作の原本はまだ発見されておらず、明治三十五年ごろに発見されたものの中でも未見のものがある。今後研究が進む中で、これらの恵忍の労作が紹介されることを願っている。