「大谷本願寺親鸞聖人縁起」
絹本著色 縦134cm 横79.5cm
「大谷本願寺親鸞聖人縁起」は、永仁二年(一二九五)覚如が撰じた「親鸞伝絵」の図絵の部分を掛軸としたもので、「御絵伝」と称し報恩講の時に用いるものである。 上巻八段(出家学道・吉水入室・六角夢想・蓮位夢想・選択付属・信行両座・信心諍論・入西観察) ・下巻七段(師資遷謫・稲田興法・山伏済度・箱根霊告・熊野霊告・洛陽遷化・廟堂創立)から成り、長く親鸞伝の基本とされた。
「親鸞伝絵」は、その成立事情から親鸞伝の最高のものと考えられてきた。しかし近世になると、「親鸞伝絵」のなかに取り入れられていないものが流布するようになり、また浄瑠璃本が多くの人々に読まれるようになって新たな親鸞像が描き出されるようになってきた。
このような傾向が強くなると、「親鸞伝」は教義の聖典としてよりも、文芸作品としての価値が重要視されるようになってきた。 このような新たな親鸞像が民衆のなかに浸透することは、浄土真宗の開祖として親鸞を崇めてきた本願寺と利害の上で対立する結果となり、本願寺の寺法が成り立だなくなってしまう。
このために、寛文二年(一六六二)東本願寺から京都町奉行所に訴えが出され、東本願寺の主張が認められ、鶴屋喜右衛門が発行した「親鸞聖人御伝記」・「しんらんき」などは発売禁止となった(「真宗史料集成」解説参照)。 この勝訴によって、絵伝の授与が、門跡の裏書きを加え、末寺へ下付するという形が強化されたことは当然である。
長命寺に伝わっている「大谷本願寺親鸞聖人縁起」は、この勝訴から十数年を経た延宝六年(一六七八)に、六代了祐の願いによって、本願寺常如が授与したものである。
了祐は、弟子の教育に力を入れ布教に努めたことが知られている。了祐の弟子是正が還来寺をひらき、このころの長命寺は脇寺還来寺のほかに、末寺覚善寺・与力直末寺善行寺を支配していた。 了祐は、延宝五年(1六七七)六月十五日に亡くなっているので、この「御絵伝」の授与は、生前了祐が願い出ていたものが、没後の延宝六年に下付されたものであろう。 本願寺常如は、延宝七年に弟の1如に職を譲って退隠している。この絵伝の授与は、先述した東本願寺と版元との訴訟を背景としているだけでなく、常如在職中晩年の筆として記念すべきものである。