米沢長命寺の開基善乗

 善乗は赤塩善仲とも呼ばれ、槍の名手で、川中島合戦のとき、上杉謙信に忠勤を励み、帰国の時は供をして、越後に移りました。越後では三島郡大島(現与野町)に三町歩余の寺地を賜り、天正六年(一五七八)ごろ脇野に移住しました。

 慶長三年(一五九八)上杉景勝の会津移封に従い、善仲も会津に移りました。知行三百石を与えられ、長命寺を建立しています。

 

 慶長六年(一六〇一)上杉氏は米沢に国替えとなり、善仲も供奉して、米沢谷地小路を賜りました(善仲町)。北寺町の善昌寺(林泉寺末寺)跡に長命寺を建立、嫡子西祐を住まわせ、善仲は仏日には谷地小路から通ったとされています。会津から米沢への国替えは上杉氏にとっては非常な削封でしたので、家臣の俸禄も削減されましたが、善仲には小松村から上長井の分籾役を仰せ付けられ、三百石の知行が与えられました。

 

 五代目は善仲の長男西祐で、次男善海は会津長命寺を相続しています。西祐が上洛した時、元亀年中の大阪篭城(石山合戦)に長命寺の忠勤があったと、昇進のことを申し渡されましたが、西祐は当時父善仲は会津におり、自分だけが昇進して父の上に座すことは不本意であると言上、「それならば父子一同に御免」をと、慶長五年一家昇進を許されました。

 

当時出羽・奥州には「一家昇進」の寺院は一ヶ寺もなく、長命寺のみであったのです。