江戸時代の長命寺

善乗のあと米沢の長命寺は、 

 

 善乗(四代) ― 西祐(五代) ― 了祐(六代) ― 敬祐(七代) ― 善祐(八代) ― 廓祐(九代) ― 淨祐(十代)(恵忍) ―  淨往(十一代) ― 淨明(十二代) ― 法音(十三代) ― 法恵(十四代)

と次第しました。

皆乗院釈浄祐恵忍像

 皆乗院釈浄祐恵忍像

 

 十代浄祐は、仏殿を荘厳にし、伝導布教に生涯をかけ、法徳すこぶる高く、中興とされています。この代に長命寺では「内陣一家」 の格式を許されました。元禄年間上杉藩内の真宗寺院二十七ヶ寺のうち「内陣一家」は長命寺のみとなっています。宝暦二年(一七五二)六十才で隠居、皆乗院恵忍を称しましたが、和歌にすぐれ、国学に通じた学僧で、「二河白道長歌」一巻、「浄土真宗聖教字箋」三巻などを著しています。

 

 十三代法音は、文化十四年(一八一七)住職となりましたが、この年七月「天明己来代々勤方書上」を藩に提出、長命寺の歴史を記録に留めています。文政元年(一八一八)二月、長命寺は本山掛所御坊(米沢御坊)に指定され、同六年には筋塀を免許されています。