「御坊免許」、「筋塀免許」、「長命寺取扱の儀につき願書」

「御坊免許」御坊免許

「御坊免許」

 縦19.0cm  横65.0cm

 

「筋塀免許」

 

「筋塀免許」

 縦19.0cm  横87.5cm

「長命寺取扱の儀につき願書」

「長命寺取扱の儀につき願書」

 縦16.0cm  横141.5cm

 

 「御坊免許」、「筋塀免許」、「長命寺取扱の儀につき願書」は、文政元年(一八一八)二月に長命寺が掛所御坊分に免許されたことについての関連文書である。十二代法音の代である。

 「御坊」は本山の別院又はこれに準ずる寺院の称号であり、「筋塀免許」は御坊分の寺の塀に本山と同じような筋塀をつけることを許可したものである。

 この「御坊」という言葉は、年代によりその持つ意味が多少違ってきている。長命寺が免許された「御坊」についての理解を深めるために、近世初期からの「御坊」について説明をしておきたい。

 近世初期は、「御坊」が本山の別院又はこれに準ずる寺院の称号として用いられたのに対して、宗主が巡化の時などに駐留休泊する地方の本山直轄寺院を掛所と称した。

 この御坊及び掛所は、東本願寺創設者である教如の代に設置された例が多い。慶長四年(一五九九)設置された大津御坊は教如の隠居中であり、御坊の設置は早くから教如の構想のなかにあったようである。

 金沢御坊・姫路御坊・茨本御坊・福井御坊などは、教如の東本願寺設立期に建立された御坊である。また教如の代に設置された御坊・掛所は徳川家康の支援による面が大きい。伏見御坊・八尾御坊は、慶長年中家康の寄進によって教如が建立した御坊である。

 東北地方において教如の代に設置された掛所としては、慶長十年(一六〇五)教如が蒲生秀行に請うて設立した会津掛所御坊がある。

 この会津御坊については「長命寺誌」のなかに、『会津ノ寺跡八次男善海ヲ置キ法務ヲ副カシム。会津御坊長命寺是ナリ』とあり、長命寺中興善乗が米沢に移った時に会津に残してきた寺跡が会津御坊であるとの説があるので、紹介しておきたい。

 会津では慶長三年(一五九八)上杉景勝が越後から移封し城下の整備も進んでいたが、景勝は徳川家康と対立し、慶長六年八月には一二〇万石のうち会津九〇万石を減封されて米沢に移っていた。そのあとに移った蒲生秀行は、家康の女婿であり、関ケ原の戦後その功を認められ、六〇万石を与えられ宇都宮から会津に戻された大名である。

 家康にとっては、上杉方の勢力を排除し蒲生氏による徳川方の安定した領国形成が必要であった。また真宗の立場から考えると、近世初期の会津は井上の淨光寺教尊が太子宗の寺々を改宗させたことで本願寺法主准如から表彰されており、西本願寺の勢力の強い地域であった。

 教如にとっては、親鸞の弟子無為信以来真宗の勢力の強い会津で、西本願寺に対する東本願寺の地盤を築く必要があった。このように東本願寺設立期に建立された御坊や掛所には、教如と家康の利害が一致する面があったようである。

 この御坊や掛所は、藩制確立の過程で、性格を変えて行く例が見られるが、会津掛所もそのひとつに数えられるであろう。

 当初掛所として輪番制をとり、本山直轄寺院としての意昧合いを持っていた会津掛所は、寛永二十年(一六四三)保科正之(二三万石)が最上から入封すると、会津藩真宗寺院としての性格を強くしていく。保科正之は、二代将軍秀忠の子として、徳川三家に次ぐ家柄であった。会津藩制は、この代に確立したといわれている。正之は会津入部に際し、最上から御供寺といわれる保科家と関係の深い寺を会津に移し寺領を与えた。また寺社奉行をおいて藩内の寺院を統制するともに、領内限りの僧録や触頭をおいて配下寺院の取締りにあたらせた。

 会津掛所では保科正之の入封したころから本山派遣の輪番制を廃し、最上泉徳寺前住幸甫が留守居として入寺し長命寺を号し、代々幸甫の子孫が継承するようになった。東本願寺では、慶長十九年(一六一四)教如が没し宣如の代になっている。会津長命寺では、本山との関係を維侍しながらも、掛所としての活動よりも会津藩の真宗寺院として存続することに重きをおいたようである。会津長命寺が、再び本山との関係を深めるのは、貢租と社倉の両面からはげしい収奪が行われ農村が荒廃し、寛延の大一揆(寛延二年・一七四九)が起こり、天明の大凶作を経て保科藩政が大幅な政策変更を余儀なくされた時期である。寛政年間(一七八九〜一八○一)幸甫から五世にあたる幸観は上洛して、本願寺から親鸞の等身の御影を請い受け本尊としている。このころから会津長命寺は、

掛所の称号を使わず会津御坊と呼称されるようになったようである。

 次に米沢長命寺が御坊に指定された当時の状況について述べることとする。長命寺が御坊分を免許されたのは、二十世達如(寛政四年・一七九二・継職〜弘化三年・一八四六・退隠)の代である。この達如の代には、文化十四年(一八一七)筑後柳川真勝寺が「寺法取締まりの為」に御坊分に指定されたように、新たに御坊分の取立てや寺格の昇進が行われている。

 長命寺では、宝永六年(一七二一)十代廓祐が相続している。廓祐(宝暦二年隠居・皆乗院恵忍)は、梵鐘を鋳造・仏殿を再興し、長命寺の経営に尽くすとともに、弟子を育て、伝道布教に力を入れた高僧であり、この廓祐の代に長命寺は内陣一家の寺格を許されている。文化十四年(一八一七)十二代法音が相続し、文政元年(一八一八)に本山掛所御坊の

寺格を免許されたわけである。  「口達覚」によると、御坊分の免許は長命寺の願いによって免許されたもので、従来の由緒や寺格を考慮してのことであろうが、教如の代の御坊や掛所の設置とは事情を異にしている。

 

 長命寺の御坊分免許に際して、浅草掛所(浅草別院)から上杉家に対して届け出があったが、そのなかで掛所免許とあったことから、本山に対して掛所と御坊の異同について問合せを行った。この返答書のなかで以下のことが明らかにされ、当時の御坊・掛所の性格を知る手がかりを与えている。

イ、浅草掛所は、浅草本願寺門跡を称し、輪番を置き、公用向き御用を勤める。輪番は、公儀役を勤める時は乗輿・色衣着用が免許される。

ロ、御坊と掛所は、本山においては同じこととして扱っているが、一派(東本願寺)の内では御坊を称し、他宗他派に対しては掛所を称す。

ハ、長命寺は御坊分となったので、仏前荘厳は本山同様に扱ってもよい。

ニ、身分については、是迄のとおり内陣一家の格式を守ること。

 この返答書によると、文政元年(一八一八)当時は、東本願寺では掛所と御坊がほぼ同じ意昧で用いられたようである。文化年間から文政年間にかけての「東本願寺史料」においても、教如の代に掛所として建立された所も寺院号をもち、御坊と呼称されている。

 近世初期、教如の代に創設された「御坊」では本山からの輪番制をとり別院として活動している所が多いが、長命寺を含めた地方の御坊では輪番でなく世襲制をとっている所がある。長命寺は米沢御坊と呼称され米沢を中心とした地域の真宗寺院の統制にあたったようである。

 上杉藩寺社奉行所では、浅草掛所からの通知を受け取ったのち寺社役須田縫殿右衛門・山吉新八が、「長命寺が御坊分を免許されたが、御坊免許は一派の内では重要な役柄なので、長命寺取扱については吟昧して欲しい」と上杉藩に願い出ている。

 長命寺では、文政六年(一八二三)門の筋塀も免許され、十四代法恵は、天保六年(一八三五)本願寺再建落成に上京し、以後も束本願寺の公式な行事に出席している。

 次に、長命寺が御坊に免許された当時の御坊の活動について触れておきたい。「東本願寺史料」には、達如の時代の別院として三十五の御坊に関する史料が収録されている。これによると各地の御坊では前上人の法要や本山から講師を招き法話が行われている。前上人の法要には、門跡が下向するのが例であり、直接門跡の教化に接することは門徒にとって大きな喜びであった。このために前上人の法事執行は、関係する御坊に歓迎されたようである。また各地の御坊は、その地域の末寺や門徒を統制・教化し、本山への上納金を取りまとめる役目を侍っていた。東本願寺では、江戸時代に入って宗学が興隆すると学階(憎侶の学識を表示する階次)を定め、本山で春秋両講の開席と夏講が行われていた。明和三年(一七六六)には「御末寺の輩すべて御本山学寮へ相詰め、講談・聴聞あるべき旨」(上檀間日記)と定められていた。