紙本著色善光寺如来

善光寺如来

「善光寺如来」

 紙本著色  縦102.5cm  横49.0cm

 

 寺伝では、先代まで「絵解き」に使われていたという。「絵解き」は、仏画や社寺縁起を大衆にわかりやすく説明することで、教化の有効な手段として用いられてきた。

  「善光寺縁起」は善光寺如来の信仰を物語るものであるが、親鸞が善光寺に参詣し、本尊の分身像を感得して下野高田専修寺に安置したとの伝えがあることから、高田門徒を中心に善光寺信仰が真宗門徒の間にひろまっていた。また、真宗門徒の教線拡大は、善光寺聖らの歩いた関東から奥羽への信仰の道と重なっていることが指摘されており、この点からも善光寺信仰が真宗門徒の間に浸透していたようである。

  「善光寺縁起」は、

第一巻 三国伝来の生身像といわれる如来像の天竺・百済における利益

第二巻 日本に渡来してから聖徳太子が物部守屋を誅伐するまでのこと。

第三巻 難波の堀江に捨てられた如米像が、善光によって信濃迄運ばれ善光寺に安置されたこと。

第四巻 「帝王御安置次第事」以下十八の霊験譚

に分かれ、応永三十四年(一四二七)以前の成立とされている。この応永本が定本となって、室町時代以降諸縁起類が流布されるようになった。

 当寺の「善光寺如来絵伝」は、晨旦・扶桑・月氏の三部から成っている。

 江戸時代の善光寺は、大勧進別当(天台宗)と、大本願上人(浄土宗)が寺務を行っていた。吉原氏によると、当寺の「善光寺如来絵伝」は、この「善光寺大勧進本」の系統に属するという。しかし江戸時代初期に作られた「大勧進本」と比較すると、第三幅の金堂の位置などに違いが見られ、直接の伝写関係を想定することは困難で、江戸時代後期の作とされている(吉原浩人「真宗の善光寺如来とその絵解き」)。