長命寺に伝わる文化財

 長命寺に伝わる文化財は、軸装のものが圧倒的に多い。そのひとつひとつについて美術史の面から考察を加えることが必要である。しかし、私は美術史の専門ではないので、その方面の先学の研究結果を紹介し、長命寺に伝わる文化財が浄土真宗の発展過程と上杉藩の歴史的推移においてどのような意味を侍っているかということに力点をおいて、これらの文化財を紹介することとした。

 

 1 親鸞に関する文化財

 長命寺の開基が、親鸞の直弟子だったとされている関係から、この寺には始祖親鸞に関する文化財が多数残されている。開基が、親鸞に直接師事した当時のものと確証できるものは多くはないが、「角型六字名号」・「丸型六字名号」及び「祖師直筆和讃」は寺伝では親鸞の直筆とされている。また現在所在が確認できないが、江戸時代の長命寺には、宗祖聖人直画と伝える「紺紙金泥経」 ・宗祖聖人直筆とされる「唯信抄文意一巻」が所蔵されていた(「文化十四年七月『由緒書言上書』写)。

  「祖師伝記」は、「御伝鈔」とも別称され、覚如の「親鸞伝絵」のなかから詞書きだけを別出したものである。長命寺に伝わる「祖師伝記」二巻は、明治九年(一八七〇)五月五日、覚如法主の真蹟であると本山事務所長石川舜台の名で証明され(「証券長命寺住物)、昭和八年四月十二日にも「點檢状」が法宝物集覧事務局長井沢勝什の名で出されている。

 「見真大師真影」は、慶長二年(一五九七)七月、長命寺善乗の願いによって教如から下付されたものである。「十字名号二憎御影」は、「法然・親鸞対座御絵」と伝えられている。「親鸞聖人真向きの御影」は、長命寺が掛所御坊に指定された文政元年(一八一八)に本山から下付されたものである。 長命寺では、親鸞と開基との関係を大事にして、親鸞に関する文化財を後世に伝えてきたのであろう。  

 

 2 蓮如の布教と長命寺

  本願寺八代蓮如は、吉崎を中心とした布教によって、一宗再興の目的を果たした。また蓮如は、親鸞聖人の修行の跡をたどって、宝徳元年一四四九)と応仁二年(一四六八)及び文明七年(一四七五)に報恩伝道の旅に出ている。この蓮如の関東教化によって、各地の真宗教団は本願寺中心の体制に組み替えられている。また教化を受けた門徒に、本尊や親鸞の御影・聖教を授与することによって、本願寺の末寺が急速に増大していった。

 信濃国布野長命寺では、

 信濃国水内郡柳原庄長命寺 釈蓮如
 文明十六年七月  願主明乗

と、文明十六年(一四八四)七月に、蓮如から「方便法身尊像」が下付されている(「真宗史料集成」)。この像は、現在の南堀長命寺には現存していないが(平成八年、長命寺住職談)、蓮如の関東教化を通じて、信濃国長命寺が蓮如の教化に接したことは確かであろう。

 

 3 信濃水内郡徳永郷井上長命寺と本願寺教如

 現在長命寺に残っている慶長二年(1五九七)「見真大師真影」には「信州水内郡徳永郷井上長命寺善乗」とあり、教如の花押がある。 教如は、天正二十年(一五九二)十一月、顕仙が没したのち法主となっていたが、翌二年十月一日准如に法主職を譲り、退隠している。

 徳川家康が教如に京都六条の地を寄せたのが、慶長七年(一六〇二)二月である。慶長二年教如授与の「見真大師真影」は、長命寺善乗が、越後に移ったのちも信濃水内郡徳永郷井上を本拠とし、教如退隠後も教如の側にいたことの証左になる。

 慶長九年にも、「三朝高祖真影」と「聖徳太子真影」が教如から授与されているが、あて先は「信濃水内郡徳永郷井上長命寺善乗」である。この間長命寺善乗は、上杉景勝に従って越後から会津・米沢と移っているが、善乗は旧跡に身内の者を残しており、本山での長命寺の本拠は、慶長九年の段階でも信濃の国井上郷であったことになる。 ただし、信濃水内郡徳永郷井上と考えられる長野県須坂市井上には、現在長命寺旧跡と推定される所は発見されておらず、今後の調査に待たねばならない。

 

 4 教如に関する文化財

 長命寺善乗と教如との関係が深かったことと、東本願寺が教如によってはじめられたことから、長命寺(大谷派)の文化財には、親鸞に次いで教如に関するものが多く残されている。

 先に述べた「見真大師真影」 ・「三朝高祖真影」 ・「聖徳太子真影」の裏書は教如の筆によるものである。また「米沢講中宛教如書状」は発給された年が明記されていないが、米沢に移った長命寺で、十二日・十三日・二十八日講が営まれ、講中から「志の銀子」を教如のもとに届けた時の礼状である。このなかで教如は、「安心一義」について述べ、「仏恩報謝のために称名念仏すること」を勧めている。「教如像」は、教如の跡を継いだ宣如の筆によるものである。

 嘉永三年(一八五一)にも「教如寿像」が下付されており、長命寺では、東本願寺の開祖として教如を尊崇し、また中興善乗以来の教如との関係を大切にしていたことを知ることができる。