「聖徳太子真影」

「聖徳太子真影」 

「聖徳太子真影」

絹本著色  縦106.5cm  横47.5cm

 

 親鸞は、聖徳太子への信仰が篤く、建仁元年(一二〇一)京都六角堂に百日参籠し、聖徳太子の示現により、東山吉水の法然房源空を訪ね、弥陀の本願他力(専修念仏)に帰した(「恵心尼消息」)。また聖徳太子は、十六歳の時(実は十四歳)用明天皇の病に際して衣帯をとくことなく日夜看病につとめ、香炉をとって平癒を祈ったと伝える。このため真宗寺院で七高僧像とともに安置する太子像は、この時の十六歳孝養像である。 

長命寺に伝わる「聖徳太子真彭」も、十六歳孝養像である。

裏書きに、

聖徳太子真影 裏書き
 

とあり、慶長九年(一六〇四)に善乗の願いによって、教如が下付したものである。慶長九年は、教如が上野厩橋から影像を迎えて(慶長八年一月)、東本願寺影堂遷座式を行った(六月)記念すべき年である。准如に法主職を譲ったのちも、教如側にいた善乗にとって影堂遷座式が行われた年に「聖徳太子真影」と「三朝高祖真影」を拝領したことは感激ひとしおのものがあったであろう。

 慶長六年(一六〇一)長命寺善乗は、上杉景勝の移封に従って米沢に移り、景勝から米沢谷地小路に屋敷(現在の善中町)と寺地を拝領し、長命寺の本拠は米沢に移っていた。しかし慶長九年に下付された「聖徳太子真影」には、「信州水内郡徳永郷井上長命寺常住物也願主釈善乗」とあり、本願寺内における長命寺の本拠は信州であったことになり、長命寺の性格を考えるうえで貴重なものである。また、東本願寺成立期に、教如が聖教などの下付を通じて、のちの本末関係の基を築いていたことは周知の事実であるが、その動きを知る上でも貴重なものである。

 『由絡書言上書』にも、「聖徳太子画像 一軸裏 教如真筆  信州水内郡徳永郷井上長命寺釈善乗」と記載されている。

 なお、この絵像は、明治九年(一八七六)四月長命寺十五世釈静了と副住職釈静教によって再表装されている。