親鸞聖人真向きの御影

親鸞聖人真向きの御影 

「親鸞聖人真向きの御影」

絹本著色  縦76.0cm  横114.5cm

 

「親鸞聖人真向きの御影」については、『長命寺誌』に、「文元年御坊分トナリテ等身ノ御影ヲ安置シ」)とあり、文致元年(一八一八)長命寺が掛所御坊に指定されてから、本山から授与されたものである。

 

 この「等身之御影」については、「真宗史料集成」九巻(二、故実1、法流故実条々秘録)に、次のような記載がある。

等身之御影と申ハ、木像ノ御真影ヲウツサレタルヲ云。真向ノ御影トモ申也。等身御影ハ無左右無免許事也。興正寺殿ヘハ顕尊之御代二御安置被成候也。一家衆中ニモ等身御影安置ハ七ケ寺計。幡州亀山本徳寺殿・越中国井水郡勝興寺・河内国茨田出口光善寺・山城国京寺内常楽寺・河内郡漆川郡久宝寺顕証寺・伊勢国長島願証寺・越中国利波郡井波瑞泉寺・羽州米沢長命寺・右之外無之。

 

 上記によると、「等身之御影」は本願寺に安置されている木像を模写したもので「真向ノ御影」とも呼ばれ、特別の理由がなければ免許されないものであった。 近世になると、この制度は少しゆるめられ、明暦三年(一六五七)陰暦十一月に、大阪府高槻市富田本照寺に「等身御影」が安置されることになった。本照寺は存知の開創を伝え、正保三年(一六四六)本願寺十三世良知の弟良教が入寺し、その後兼帯寺として法主が兼任した寺である。その後、しだいに地方の直轄寺院である掛所にも免許されるようになった。しかし、掛所御坊以外には、なかなか許可にはならなかったようである。天保十二年(一八四一)越中礪波郡勝興寺が「等身御影」の下付を願い出た際にも、「部面通寺江等等身御影御免之例無之」と不許可となっている。